次=継

これは2018年4月30日、刑務所に服役中書いたものの全文です。

 

「新しい」という言葉は好きでない。

そこになにか超越的な響きや特権的なもの、あるいは赦されたものもしくは赦されるべきものといった胡乱さを嗅ぎ取ってしまうし、まるでそれ以外は古きに堕し役立たずになってしまったかのような嘘さえ含んでいる、とあえて強弁しよう。

誰もが言っているように、新しいものなど存在しないし古くなって役立たずなものも存在しない。

新しいもの、という概念をハイデガーの「解意」のもとに解釈できないだろうか。どうなんでしょうか専門家の方々。

それはそうと、故に、俺は「新しい」という言葉を極力避けようとしている。端的にそんなみっともない言葉は使いたくないのだ。

そのために自分の中でそれに置き換える言葉を探していたところ、なんとかこれなら、という言葉が「次」であった。Nextである。

しかしそれだけではどうも十分でないという思いが拭いきれず、これまでは使用を憚られていた。が、久し振りに「夜戦と永遠」を読み返し以前よりも少しその概念への理解に改善がみられたことで、この「次」という言葉に「継」という言葉を重ね合わせるに思い至った。

もちろんそれは読んですぐ、というのではなく読み終わってしばらく日が経ち食事中なにげなくぼんやり「次」について観念が流れていた時のことだった。閃きと言って差し支えない。その一瞬の秒針のひと刻みに似た氷結をさらに凝結させようとペンの助けを借りている。

さてその「次=継」であるが、これは今迄および現在ではない、という限りでの「新」であり、その意味で「Next」である「次」であり、次の「次」に向かっての「継ぎ」であり、これまでをも継ぎ、そのこれまでのアレとコレを「継ぎ」合わせて「次」をつくり出す歩みであり、橋であり、背負うということであり、故に系譜であり、「モンタージュ」「ダイアグラム」である。

「次=継」とは未来であり過去であり現在である、とこう言ってしまうと何か胡乱に響いてしまうが、しかしこれは「モンタージュ」「ダイアグラム」であるのだから、「純然たる戦い」である。

自らをかぎ裂きとし、内に「嵐」を、「外」を嵌入させ、其処で孕まれたものをかぎ裂きである自らを通して分娩し、歴史の賭場に賭ける終わりのない戦い、だからこそ「新しい」のではなく常に「次=継」なのである。

「新しい」に逃走線を引き、佐々木中氏の全面的な助力を得て「次=継」の概念規定に至ったわけであるが、それ故にナマクラな使い方は許されず困難がある、がそれを補って余りある歓びが確かにある。

計り知れぬ悩みの、迷いと惑いの幾夜を越え、数え切れぬ逡巡と悔いと苛みの暁を抜けやっと辿り着くその歓び。

次に向かうひと時の継ぎの瞬間。

そしてその次に向かうために、われわれは今日もかぎ裂きであることを止めない。

 

確かにいまここに書き起こしてみると、細かい所が気になりはする。

しかし直さずにここに置いておくことにしよう。正しかろうと間違っていようとこれから始まったことが確実にあるのだから。

4年7ヶ月という刑期の中でニーチェを通し佐々木中さんに出逢えたことは救いだった。

俺は大学どころか中学も2年間しか行っていない、その後も学問には縁のなかったような奴だから、学術的に正しい事なんて到底わからない。そのスジの方々にしてみれば失笑を買うような間違いを犯していることだろう(コッソリご教示頂けると有り難いです)。

だけど真剣にやりますよ。

真剣だから命のやり取り、って事ですよね。切れます。血が流れます。

それが人の営み、つまり藝術ってことなんじゃないですか?

 

ONE LOVE

まずは藝術の定義から始めよう

言葉を扱うにあたってまず大切になるのは、その言葉をどういう「意味」で使用しているか、ということだ。

特に藝術/芸術という言葉は振り幅がひどく激しい。

カントなどによれば芸術は無関心性、つまり実生活とは関係のない所謂「芸術のための芸術」に結び付けられるが、佐々木中に言わせれば人の営み自体が藝術から始まっているものであり、実生活と藝術は切り離せないどころか、生活そのものも既に藝術だということになる。

引用する。

「藝術(art, Kunst)は、ラテン語ではアルス(ars)といい、これはそもそもギリシャ語のテクネー(τεχνη)の翻訳語である。煎じ詰めて言えば、これは自然(nature, Natur, Natura, φύση)の内部で、時にはそれに抗して生き延びることを可能にする、「技藝」、あるいはより踏み込めば「工夫」とも訳すべき語である」

いま友人に佐々木さんの本を殆ど貸していて、「戦争と一人の作家」以外手元にないので引用元を詳しくは記せないが、この態度は始終一貫している。

俺が「藝術」と発言する時は全て佐々木中の定義による藝術だ。

そして「芸術」は刈り取ることであり、「藝術」は種を蒔くことだ、という「切り取れ、あの祈る手を」でなされた発言も含意している。

現代では誰もが生活と、つまり「政治」と藝術を切り離して思考しがちだが、この定義の上でそうすることはできない。それは残念ながら許されないのだ。

だから俺はただの娯楽にまで薄められ真の変革への力を失った「エンターテインメント」という藝術もどきのビジネスに心底ウンザリしている。

エンターテインメントのプレイヤー達を人は「アーティスト」と呼び、当の彼ら彼女らも自らを「アーティスト」と呼ぶ。

笑止だ。これ以上の無自覚があって良いのか。

強弁だと罵られようとこう言おう、君たちが自らをアーティストと呼ぶ事や、アーティストと呼ばれる事を否定しない事は、「罪」である、と。

もちろんその只中にあって真の変革のための次/継ぎの一手を繰り出した人もいるだろう、いると信じたい、信じている(ここで使用した「次/継ぎ」という言葉については次回詳述する)。

だが周りを見渡してみてどうか?

そこからどのようなものを見出すかは確かに受け手の感性に任されている。

誰かにとっては全く理解不能な文字の羅列から未来を引き出せる者もいれば、単純な旋律から過去を見出せる者もいるだろうし、落書きのような線や色から現象を想起する強者もいるだろう。

だからといって送り手が雑魚であって良いわけはないし、むしろそのような雑魚が何かを得られる強度を孕んでいるとは到底思えない、ならば...というわけだ。

まずは言葉をできるだけ正しく、自分なりの定義を明確にしながら使用しよう。

俺はMC/ラッパーとしてマイクを握り音に乗せ言葉を発している。だからこういった事に「無関心」でいられる訳がないんだ。当然のことだろ?

ONE LOVE