まずは藝術の定義から始めよう
言葉を扱うにあたってまず大切になるのは、その言葉をどういう「意味」で使用しているか、ということだ。
特に藝術/芸術という言葉は振り幅がひどく激しい。
カントなどによれば芸術は無関心性、つまり実生活とは関係のない所謂「芸術のための芸術」に結び付けられるが、佐々木中に言わせれば人の営み自体が藝術から始まっているものであり、実生活と藝術は切り離せないどころか、生活そのものも既に藝術だということになる。
引用する。
「藝術(art, Kunst)は、ラテン語ではアルス(ars)といい、これはそもそもギリシャ語のテクネー(τεχνη)の翻訳語である。煎じ詰めて言えば、これは自然(nature, Natur, Natura, φύση)の内部で、時にはそれに抗して生き延びることを可能にする、「技藝」、あるいはより踏み込めば「工夫」とも訳すべき語である」
いま友人に佐々木さんの本を殆ど貸していて、「戦争と一人の作家」以外手元にないので引用元を詳しくは記せないが、この態度は始終一貫している。
俺が「藝術」と発言する時は全て佐々木中の定義による藝術だ。
そして「芸術」は刈り取ることであり、「藝術」は種を蒔くことだ、という「切り取れ、あの祈る手を」でなされた発言も含意している。
現代では誰もが生活と、つまり「政治」と藝術を切り離して思考しがちだが、この定義の上でそうすることはできない。それは残念ながら許されないのだ。
だから俺はただの娯楽にまで薄められ真の変革への力を失った「エンターテインメント」という藝術もどきのビジネスに心底ウンザリしている。
エンターテインメントのプレイヤー達を人は「アーティスト」と呼び、当の彼ら彼女らも自らを「アーティスト」と呼ぶ。
笑止だ。これ以上の無自覚があって良いのか。
強弁だと罵られようとこう言おう、君たちが自らをアーティストと呼ぶ事や、アーティストと呼ばれる事を否定しない事は、「罪」である、と。
もちろんその只中にあって真の変革のための次/継ぎの一手を繰り出した人もいるだろう、いると信じたい、信じている(ここで使用した「次/継ぎ」という言葉については次回詳述する)。
だが周りを見渡してみてどうか?
そこからどのようなものを見出すかは確かに受け手の感性に任されている。
誰かにとっては全く理解不能な文字の羅列から未来を引き出せる者もいれば、単純な旋律から過去を見出せる者もいるだろうし、落書きのような線や色から現象を想起する強者もいるだろう。
だからといって送り手が雑魚であって良いわけはないし、むしろそのような雑魚が何かを得られる強度を孕んでいるとは到底思えない、ならば...というわけだ。
まずは言葉をできるだけ正しく、自分なりの定義を明確にしながら使用しよう。
俺はMC/ラッパーとしてマイクを握り音に乗せ言葉を発している。だからこういった事に「無関心」でいられる訳がないんだ。当然のことだろ?
ONE LOVE